大瀬東作さんの足跡を辿る
大瀬東作とは
大瀬東作資料館では大瀬東作の実際に使用していたものなどを中心に、展示などでご紹介しています。
明治18年(1885年)11月、度会郡七保村野原、父大瀬平作と母はる枝の間に、七人兄弟の長男として生まれた。
明治32年(1899年)高等小学校を修了後三重県第4中学校に入学。代用教員になったが約5ヶ月で徴兵され、軍隊生活を経験した。
明治41年(1908年)24才で結婚、家業の農林業等に励んだ。農業経済の向上を図るには産業組合の結成の他ないと、明治44年(1911年)27才の時、野原地区に組合を設立した。
大正4年(1915年)31才で七保村助役、大正7年(1919年)34才で村長になり、三重県町村会、全国町村会の創立、義務教育費国庫負担の運動を繰り広げ大きな功績を残した。
当時小学校教員の俸給費は市町村の負担であり、貧弱な町村財政にとっては非常な重圧になっていた。この危機を救う途は国庫支弁以外道なしと信じた彼は、村長就任翌年の大正8年(1920年)国庫負担とする全国運動を、一念発起するにいたったのである。
大正12年(1923年)、運動功を奏して市町村義務教育国庫負担法改正を実現せしむるにいたった。
大正12年(1923年)村長の職を辞めて田園に帰り、農業経営に身を投じながら、野原橋の架橋をはじめ多くの愛郷の事業に人瘁した。昭和13年3月5日(1938年)、病没した。享年54才であった。葬儀は準公葬で多数の名士が来集した。
その徳を偲び、昭和46年(1971年)11月16日野原橋のたもとに氏の胸像が建立された。胸像には次のように刻されている。
義務教育と地方自治の 先駆者 大瀬東作氏氏は旧七保村野原に生る。大正7年七保村長となるや、翌8年義務教育国庫負担運動を主唱、之に挺身、この間、三重県並びに全国町村会の創立に尽瘁す。
大正12年運動効を奏するや、野に下って野原橋建設その他愛郷の事業に尽くす。
昭和13年3月5日、54才をもって没す。